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母は玄関に上がるやいなや、「○○、××!」と兄と私の名を呼んだ。
私たちは何事かと、どどどっと階段を駆け下りてゆく。そこには、某有名デパートの紙袋を両手に下げ、満面の笑みをたたえた母がいた。
「おかあさんねぇ、すごくいい買い物してきちゃった。なんだと思う?」
「チョコ!」「お肉!」「みかん!」「おせんべい!」と私たちは思いつくままに口にしてみる。
それを遮るようにして、母は信じがたい言葉を吐いた。「あ・お・の・り!」
どうやら二つの紙袋には青海苔の缶がぎっしりと詰まっているらしい。
「一缶50円だったのよ。売り場のおじさんがね、地震のときにもいいって言うから50缶買ってきたの。」
「また騙されたな。」と子供心に思った。頭のいい兄は、それを上手に表現する。「でもさぁ、そんなもの食べてたらノドが渇いてしょうがないよ。」
母は一瞬ひるんだが、「いいの、いいの。」と言いながら青海苔をかかえて茶の間へと入っていった。
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青海苔は、その日の夕食に早速登場した。商品名も書いてなければ、メーカー名も入っていない、全面柿色をした見るからにあやしいヤツである。
とりあえずご飯にふって食べてみる。おいしくない。味噌汁に入れて飲んでみる。これまたおいしくない。漬物にふり、おかずにもふって食べてみたが、しょせんは青海苔の悲しさよ。口の中にやたらとはりつくだけで、どれもおいしくないのである。おいしくないだけならまだいいが、気がつけば、すべてが緑色になり、おどろおどろしい食卓となっていた。
それを見て急に怖くなった。さらに怖かったのは、どれくらい減っているだろうかと父が青海苔の缶を開けて確かめてみたときである。不思議なことに青海苔は少しも減った形跡を見せず、その緑色を缶の口いっぱいに広げていた。
「こういうのをな、“無尽蔵”というんだぞ。」と父は兄と私に教えてくれた。
しかし、初めて耳にするその言葉の響きはさらに私の恐怖を増幅させた。緑色の粉をつぎからつぎへと吐き出し、やがては私たちをも飲み込んでしまう“むじんぞう”という妖怪を思い起こさせたのだ。
当然のごとく、翌日からは誰も青海苔を食べなくなった。ただ一人、母だけが責任を感じてか、山盛りの青海苔にお湯を注ぎ、しょうゆを数滴たらして“青海苔汁”を飲んでいたが、私は母に“むじんぞう”の呪いがかかりはしないかと本気で心配した。しかし、幸いなことに母の努力も3日と続かず、“むじんぞう”は忘れ去られていった。
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あれほど恐ろしかった“むじんぞう”ではあるが、その最期はあっけなかった。2ヶ月ほどして父が思い出したように“むじんぞう”を振ってみたが、ちっとも出てこない。フタをとって中を見てみると、妖怪“むじんぞう”は無残にも缶の底で固まったままお亡くなりになっていた。どうやら、天敵の“しっけ”にやられたらしい。父は物を捨てる人ではないが、このときばかりはなんの躊躇もなく、それをごみ箱に捨てた。
その日の午後、棚の中に眠っていた49缶の“むじんぞう”を今度は母が捨てた。
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